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大阪のとある広告代理店に勤める、おつぼねデザイナーの雑記です。
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先日、管理のH本さんと元社員のKくんと
飲みに行ってきました。

二人より遅くなった私が

お「先に飲んどいてー」

とメールを打つと

K「シャレオツな店で待ってますんで!」

とKくん。ほんまかいな。


しばらくたってH本さんにメール。

お「今から行くわーどこー?」

H本「三間堂にいます・・・」


この前と一緒ですやん!まぁいいんですけど。



↑油揚げの焼いたの


↑秋刀魚の刺身


↑肉の焼いたの(名前忘れた;)


↑そば屋さんなので、焼酎のそば湯割を。


こんな感じのものをつつきつつ
Kくんの片想い話をつまみに飲む。
※本人無許可にて掲載


いやー新鮮!片想いの話なんて新鮮。
まぁどんな感じの娘に片想いしているのかは
伏せますが、Kくんより年下のH本さんに


H本「Kさん、そりゃもう縁がないんですって」

H本「先輩に憧れてキャーキャー言うてる後輩みたいっすね」


とばっさり切られて「次会ったらがんばる」と反論するKくん。


とりあえず人生の先輩として

・(その娘の勤務先の)ビルの前で待てば。
・近所をジョギングして偶然を装えば。

とストーカーまがいの役に立たないアドバイスを
しておきました。


まぁわたくし、ひとの恋愛相談にのってる場合じゃない
んですけどね・・。


【本日のあるこーる】
梅酒×1
焼酎ロック(芋)×2
焼酎そば湯割り(芋)×1

*********************************

「地酒とそば・京風おでん
三間堂 堺筋本町店」


大阪市中央区南本町1-7-15 明治安田生命ビル1F
06-6267-1332
11:30〜14:00
17:00〜23:00
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無題
いや~そんな事もありましたね。
その後、な~~んの進展も無し。
何処に行けば会えるのかな~?

まっ良いです。

んで、【お】さんの更新は約一ヶ月遅れで更新されているのですね~~!!



NONAME 2008/10/29(Wed) 編集
>NONAME 様
ビルの下に行けばいいじゃない!

>んで、【お】さんの更新は約一ヶ月遅れで更新されているのですね~~!!

そそそんなこと・・・あります。
はい。
>
>
 【2008/11/10】
無題
la.f...
って言う服の年齢層は何歳ぐらいですか?
NONAME 2008/10/29(Wed) 編集
>NONAME 様
うーん。
30代じゃないことは確かですね。
 【2008/11/10】
無題
俺を超える者は俺しか存在しない。

兵○の今回のチラ○って
厚紙?
NONAME 2008/10/29(Wed) 編集
>NONAME 様
そうですか。

>兵○の今回のチラ○って
>厚紙?

ちがうと思いますよー。
 【2008/11/10】
無題
好きです。

栗山 千明(くりやま ちあき、1984年10月10日 - )は日本の女性タレント、モデル、女優である。日本音楽高等学校卒業。所属事務所はスペースクラフト。トレードマークの長い黒髪と妖艶な眼差しで少女時代は出演作品でも独特の雰囲気を持つ役柄を演じることが多く、「クールビューティ」と評される。しばしば海外の雑誌でもグラビアを飾り、表紙モデルになることもある。

来歴
1989年、5歳の時、テレビの幼児向け番組『ひらけ!ポンキッキ』を見て「私もあそこで遊びたい」と言ったところ、母親が芸能事務所に入れてくれた事がこの世界に入るきっかけに。七五三のチラシから始まり、「ピチレモン」「ニコラ」などティーン誌でのファッションモデルとして活動する。

1997年に篠山紀信の撮影による写真集『神話少女~栗山千明~』を新潮社より出版している。高く評価され版を重ねたものの、撮影時11歳の作品で数枚のヌードが含まれていたため、現在は児童ポルノ法の施行により出版社が自主規制し絶版となっている。

身長が162cmから伸びなかったため女優に転進することを決意[1][2]。1999年に第1回ミス東京ウォーカーを受賞。これを機に本格的に女優デビュー。当初は『死国』のようなホラー作品への出演が多かったことから周囲に「怖い」などと冷やかされることが多く、そのことで(自分の外見は怖いのかという)悩みを持ったという[1]。

2000年に映画『バトル・ロワイアル』に出演。この映画での演技がクエンティン・タランティーノの目に留まり2003年に『キル・ビル Vol.1』に出演し、その名を世界に知らしめた。その存在感から『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』で「Great Performers 2003」の1人として紹介された。また、栗山とユマ・サーマンの戦闘シーンが『The MTV Movie Awards 2004』で「Best Fight賞」を受賞[3]。「シネスケープ」の「未来の顔賞」女優部門にもノミネートされる。この映画で演じた『ゴーゴー・夕張』は各方面に強烈な印象を残し、パリのオークションでは彼女の人形に日本円にして数百万円の値が付くなどした。

2004年には『下弦の月〜ラスト・クォーター』で映画初主演を果たし、2005年には資生堂の「MAQuillAGE」(マキアージュ)広告に起用される[4]。2006年の夏には「第3回The Beauty Week Award 2006の女優のロングヘア部門」を受賞[5]。

2007年には映画『エクステ』主演。連続ドラマ『ハゲタカ』、『特急田中3号』に出演する。10月1日には「第7回ベストレザーニスト賞」を受賞[6]。11月には2007年度のベストドレッサー賞を受賞[7]。


[編集] 人物・エピソード
この記事や節の内容に関する文献や情報源を探しています。出典を明記するためにご協力をお願いします。

趣味は「長風呂」で、本や漫画を読みながら数時間も半身浴で過ごすこともあるという。
特技はクラシックバレエ・新体操。最近では絵画に挑戦中[8]。
インドア派でアニメ、ゲーム、漫画(少女漫画ではなく少年漫画)などをこよなく愛する。そのきっかけは『新世紀エヴァンゲリオン』で、その登場人物の綾波レイが理想の女性であり、渚カヲルが理想の男性であると公言している[9]。その影響で綾波レイの声優の林原めぐみのファンでもある。また、漫画に限らず読書家でもある。アニメに精通しているからか、「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」に出演する際のインタビューでは、うれしいが聖域に踏み込むようで正直嫌だった、と話している。
好きなアーティストは、My Chemical Romance、宇多田ヒカル、椎名林檎、アヴリル・ラヴィーン、L'Arc〜en〜Cielである
NONAME 2008/10/29(Wed) 編集
>NONAME 様
キル・ビル良かったですよ。
 【2008/11/10】
無題
井決断!Dynamite!!でリングデビュー

北京五輪柔道男子100キロ超級金メダリストの石井慧(21=国士舘大)が、総合格闘技「DREAM」入りし、大みそか恒例の「Dynamite!!」(さいたまスーパーアリーナ)のリング上でファンにあいさつすることが28日、明らかになった。石井サイドはすでに先週末、柔道部を持つ就職先候補の企業に断りを入れており、DREAM側とも極秘に接触。国士舘大卒業後の来春からDREAMに本格参戦することになった。

 柔道続行か総合格闘技への転身か。進路に注目が集まっていた石井が、ついに決断した。7日の会見で「今は卒業のことで頭はいっぱい」と話し、転身を明言しなかった石井だが、25日に就職の勧誘を受けていた柔道の複数の企業に、就職を辞退する連絡を入れた。関係者によると「本人が総合格闘技に行きたいと言っている」と説明したという。

 一方でDREAM側とも極秘に接触。国士舘大関係者はこの日、地元・大阪で石井慧後援会による祝賀会が行われる来月3日にも「プロという発言が出てくるのではないか」と話し、祝賀会が柔道界との決別と、総合格闘技転身の意気込みを表明する場になるとの見通しを話した。水面下ではDynamite!!のリング上でファンに参戦を表明する方向で調整が進んでいるもようだ。

 曲折を経て、ようやく騒動が収束した。将来の目標として五輪前から総合格闘技挑戦を公言していた石井は、北京五輪の金メダル獲得後も「いつケガをするか分からないし、早いうちに」と発言。柔道関係者にも将来的な転身の意向を伝えていた。騒動が表面化した後の7日には、石井本人が会見を行ったが、結論は保留。父・義彦さんらは2012年ロンドン五輪後の転身を勧めたが、柔道界側は強化スケジュールの関係から早期の決断を促してきた。

 結局、総合格闘技への思いは強く、23日の園遊会では天皇陛下の問いかけに対し「ロンドン五輪は目指しません」と発言。学生最後の試合となる体重別団体優勝大会(来月1、2日、兵庫・尼崎市)の欠場も大学側に正式に通達し、25日に柔道の企業へ就職の断りを入れることになった。

 今後は、来月15、16日の講道館杯終了後に行われる全日本柔道連盟の強化委員会前に強化選手辞退届を提出。DREAM側と条件交渉に入る。03年12月にK―1に転身した大相撲の元横綱・曙は、3試合2億円(推定)の契約とされるが、金メダリストが絶頂期のうちに参戦することで、それを上回る破格の条件となることは間違いない。

 家族らの意向で、来春の国士舘大の卒業を優先させることと、打撃など総合格闘技の練習も不足しているため、Dynamite!!ではリング上で参戦を表明するだけにとどめる。大学卒業後の来春、満を持してDREAMデビューする21歳は、五輪金メダルに続く新たな夢へまい進することになる。
NONAME 2008/10/29(Wed) 編集
>NONAME 様
格闘家になっちゃいましたね。
 【2008/11/10】
無題
衆議院解散


衆議院解散(しゅうぎいんかいさん)とは、日本の議会・衆議院の解散であり、任期満了前に衆議院議員全員の地位を失わせることである。 なお、衆議院解散による解散総選挙(衆議院総選挙)は、解散の日から40日以内に行わなければならないと憲法に定められている(日本国憲法第54条1項、公職選挙法31条3項)。また、解散総選挙の日から30日以内に特別国会が召集され、新内閣が組閣される(日本国憲法第54条1項)。

日本国憲法下における衆議院解散

[編集] 解散権の帰属
日本国憲法において衆議院解散について規定した条文としては、第7条と第69条がある[1]。衆議院解散は第7条第3号により天皇の国事行為とされているため、形式的には天皇が衆議院解散を行うが、誰が衆議院解散に関する実質的な決定権限を持つかについては、第7条にも第69条にも明確に規定されているわけではない。もっとも、根拠をどこに求めるかについては争いがあるものの、憲法学者・先例ともに内閣[2]に衆議院解散の実質的な決定権限があることで見解が固まっている。

これに対し、内閣ではなく衆議院による自主解散権を認める見解も存在するが、議院の多数派により少数派の議員の地位を失わせることを可能とするためには法律上明文の根拠が必要であるとして、ほとんど採用されていない。衆議院解散要求決議案が衆議院本会議で採決に至った例はあるが、可決されたことはなく、仮に可決されても、法的拘束力のない国会決議の一つにとどまるものとされる。


[編集] 内閣に実質的権限が帰属する根拠
以上のように、衆議院解散の実質的な権限を持つのは内閣とする見解にほぼ固まっているが、その根拠については以下のとおり見解が分かれている。もっとも、行政説と69条説はほとんど支持されておらず、7条説と制度説が対立しているのが実情である。

7条説
日本国憲法7条に規定する「内閣の助言と承認」に実質的権限の帰属の根拠を求める見解。国事行為とされている事項の実質的権限の帰属が憲法上明確でないものについては、国事行為に対する内閣の「助言と承認」を根拠として、内閣に実質的な権限があるとする考え方を前提とする。
制度説
日本国憲法は議院内閣制を採用しているところ、議院内閣制においては内閣に議会の解散権を認めるのが通例であることに根拠を求める見解
行政説(65条説)
行政の定義を「国家の権能のうち、立法と司法を除いた残余の権能」とする考え方(控除説)を基に、衆議院解散権は立法でも司法でもないから行政に属し、日本国憲法第65条により内閣に帰属するとする見解
69条説
日本国憲法69条は衆議院による内閣不信任決議の効果について定めているところ、同条中の「衆議院が解散されない限り」という文言は、不信任決議に対する内閣の対抗手段としての解散を認めたとする見解

[編集] 69条所定の場合に限定されるか
日本国憲法第69条の解釈上、衆議院で内閣不信任決議案が可決されるか信任決議案が否決された場合に、内閣はそれに対抗する手段として衆議院解散が可能であることに争いはない。しかし、それ以外の場合に衆議院解散が認められるかについては、過去に争いが存在した(なお、前述の69条説は、解散権の帰属の根拠を69条に求めるため、解散は69条所定の場合に限定されることになる)。

この点、GHQ施政下にあった1948年に衆議院を解散する際、当時の第2次吉田内閣は69条所定の場合に限定されないという見解を採っていたのに対し、野党は69条所定の場合に限定されるという見解を採り、対立していた。そのような中で、憲法草案に携わっていたGHQは衆議院解散を69条所定の場合に限定する解釈を採ることが伝えられ、協議の上、野党が内閣不信任案を提出して形式的にそれを衆議院で可決し、69条所定の事由により解散する方法を採った(馴れ合い解散)。この時の解散詔書には、以上のような見解の対立の妥協の産物として、「衆議院において、内閣不信任の決議案を可決した。よって内閣の助言と承認により、日本国憲法第六十九条及び第七条により、衆議院を解散する。」と記載された。

これに対し、1952年に第2回の解散をしたときは、69条所定の場合ではなかった。このため、解散当時の衆議院議員が、歳費請求訴訟の中で解散の無効を主張したところ、その上告審において最高裁判所は、いわゆる統治行為論を採用し、高度に政治性のある国家行為については法律上の判断が可能であっても裁判所の審査権の外にあり、その判断は政治部門や国民の判断に委ねられるとして、違憲審査をせずに上告を棄却した(いわゆる苫米地事件判決)。この第2回解散の際の詔書には「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。」とあり、以後は、内閣不信任決議案が可決された場合であるか否かにかかわらず、この方式によることが確立している。

このように過去には争いはあったものの、解散を69条所定の場合に限定する見解は現在ではほとんど見られない。もっとも、内閣に自由な解散権があるとしても、総選挙を通して民意を問う制度である以上、それに相応しい理由がなければならないと理解されており、国会法74条に基づく内閣に対する質問に対し、内閣から国会に提出された答弁書では、新たに民意を問うことの要否を考慮して、内閣がその政治的責任において決すべきものとの認識が示されている。

なお、1993年6月18日の嘘つき解散は、内閣不信任案の可決による解散であったが、議長が慣例どおり「日本国憲法第七条により衆議院を解散する。」との詔書(後述「手続等」を参照)を読み上げたため、野党席からは「69条の解散ではないのか」との抗議の怒声が起こり、万歳三唱がなかなか行われず、遅れて与党席から「万歳」の声があがるというハプニングもあった。


[編集] 手続等
衆議院解散を決定する権限は内閣に属する。
したがって、内閣総理大臣は閣議を開き、「今般、衆議院を解散することに決したので、国務大臣の諸君の賛成を賜りたい」と全閣僚に対して衆議院解散を諮り、内閣の総意を得た上で、衆議院解散を行うための閣議書に、すべての国務大臣の署名を集めなければならない。
国務大臣が署名を拒否した場合は、該当大臣を罷免し、内閣総理大臣自身が兼任するか他の大臣に兼任させることで閣議書を完成させる。極端に言えば、内閣総理大臣一人が他の全大臣を兼務する一人内閣で閣議書を完成させることも可能である(具体的には2005年の『郵政解散』の際に小泉純一郎内閣総理大臣が、署名を拒否した島村宜伸農林水産大臣を罷免したのが唯一の例である)。
衆議院の解散は天皇の国事行為であるため、閣議書が完成すると、内閣官房の内閣総務官が皇居又は御所に赴いて奏上し、詔書の原案に天皇の署名、御璽の押捺を受ける。
内閣官房に持ち帰った後、内閣総理大臣が詔書に副署し、内閣官房長官を通じて衆議院議長に伝達される。
国会会期中の場合、詔書が発せられると直ちに衆議院本会議が開かれる(衆議院本会議開会中に詔書が発せられることもある)。議長席後方の扉から内閣官房長官が「紫の袱紗(ふくさ)」に包まれた詔書の写し及び内閣総理大臣からの伝達書を持って入場し、衆議院事務総長が中身を確認した後、次第書を付けて衆議院議長に渡す。
議長が「ただいま、内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから朗読いたします」と発言すると、議長及び全議員が起立する(総員起立)。議長が「日本国憲法第七条(の規定)により、衆議院を解散する」と詔書の文章を読み上げて衆議院の解散を宣言する。
詔書が朗読された直後、衆議院議員が万歳三唱することが慣例となっている。
本会議を開かないで解散を宣言したことが数度あり、この時は院内の衆議院議長応接室に各会派の代表を集め、詔書を衆議院議長が朗読した。
議長は、一呼吸置いた後、無言のまま議場を後にする。通常ならば、「この際、暫時休憩いたします」、あるいは「本日はこれにて散会いたします」と宣言するところだが、解散と同時に議長も失職するため、それらを宣言する資格が消滅すると解されているからである(ただし、日本国憲法施行後間もないころの解散では、散会を宣告した例もある)。解散後に議場から退出する失職した「前」議員たちに対しても、衛視が敬礼をしなくなる。
なお、議長が詔書を朗読する際、「第七条」を「だいしちじょう」ではなく、「だいななじょう」と発音することが慣例となっている。これは(議場において議員や速記者等が)「一」や「四」と聞き間違えることを防ぐためである。
解散詔書が読み上げられて衆議院議員が万歳三唱を行う際には、議員以外の職員、記者、一般傍聴人は、議場の秩序維持のためにこれに呼応した万歳及び喚声を上げてはならないとされており、解散が決定すると、あらかじめ傍聴席などに衛視を配備して警備を強化すると言われている。
衆議院の解散はすべての動議に優先されるため、内閣不信任決議案が提出されていたとしても、解散詔書の文章が朗読された時点で廃案になる[3]。審議中の法案は、解散と同時にすべて廃案となる。
また、衆議院が解散されると、参議院は自動的に閉会となる。過去には参議院の本会議が休憩中に衆議院が解散となり、再開されなかったケースもある。


[編集] 解散詔書
大日本帝国憲法下の解散詔書は「朕帝国憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス」と表現されていたが、日本国憲法下では「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する」と口語文の平仮名書きに改められた。後者の詔書には「朕」(天皇の一人称)=主語が明記されておらず、議長の読み上げ文だけを聞く限り、素人目には誰が解散するのか分からない。詔書全体では、この後に御名御璽があるため、主語が天皇であることは明白であり、日本国憲法第7条の趣旨と合致する。これは、日本国憲法においても天皇が元首であるとする勢力とそうでないとする勢力とのせめぎ合いの中で、妥協の産物として成立した文面である。

衆議院の解散に関するマスコミ報道等では、国務大臣が解散詔書に署名したなどと報じられることがあるが、これは明らかに誤りである。国務大臣が署名する対象は、天皇の国事行為(衆議院の解散)に関する閣議決定書である。解散詔書に署名(副署)するのは、天皇及び内閣総理大臣のみである。

解散詔書の原本は、公文書として内閣官房で保管される。衆議院議長が本会議場で読み上げるものは、詔書そのものではなく、詔書の「写し」(天皇の署名、御璽の押捺が「御名御璽」と書き換えられている)である。詔書の「写し」は、衆議院議長のあて名が書かれた白色の封筒に、内閣総理大臣からの伝達書とともに収められる。


[編集] 解散権制限
内閣の衆議院解散権が制限される明白な規定はない。しかし、衆院選の一票の格差や在外選挙で最終審で違憲判決(または違憲状態)とする確定した場合、違憲状態を残したままでは衆議院を解散をして総選挙することは控えるべきとされている。違憲状態が明白のまま総選挙をしても、その後で最高裁が解散総選挙無効と目されている。


[編集] 政局など
衆議院の解散は、事実上の解散権限を持っている内閣総理大臣の伝家の宝刀と呼ばれる。

内閣・与党の支持率及び選挙の勝算を考慮した結果として、国会が開かれていない時期に衆議院が解散されることが適切だと政治的に判断される場合には、臨時国会を召集し、その冒頭で衆議院を解散する(召集時解散)。

国会が開会されていない期間中でも衆議院の解散は可能とされている[4]。但し、国会閉会中の衆議院解散については、現憲法施行以来、今まで行われた例は一度たりともない。

衆議院の解散が起こりそうな政局を、しばしば「解散風が吹く」と表現することがある。

佐藤栄作は「内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる」と、小泉純一郎は「首相の権力の最大の源泉は解散権と人事権」と語り、衆議院解散権は内閣総理大臣の強大なる権力の源泉とも言える。また加藤紘一は「解散の時期に関して政治家は権力から遠ければ遠いほど疑心暗鬼になり、近ければ近いほど操作したくなる」と語っており、政界でも「衆議院解散と金利については嘘を言ってもいい」と表現されるほど、様々な政局に応じて衆議院解散権が牽制に使われたり不意打ちに行使されたりしても、当然という認識が浸透している。

以下のとおり、衆議院の解散にはそれぞれ呼称が存在する。しかし、いくつかの解散には、一つの呼称だけでは世間に浸透していないものもあり、複数の呼称が存在するものもある。

大日本帝国憲法下における衆議院解散
大日本帝国憲法の下での衆議院の解散は、天皇の大権に属し(第7条)国務大臣の輔弼に基づき(第55条第1項)権限を行使した。このため解散を現実的に決定したのは内閣であった。

解散の手続は、帝国議会時代に先例として確立し、日本国憲法下にもほぼ踏襲されている。ただし、解散詔書の文面は前述のように「朕帝国憲法第七条ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス」と主語が明確に書かれ、天皇が主体的に解散を行っているという形式を採っている。

衆議院が予算の先議権を有することは、大日本帝国憲法でも規定されていた。そのため、初期議会において、政党は憲法の運用を通じて政治的影響力を増大させ、憲法発布当初は超然主義を採っていた藩閥政府と激しく対立した。藩閥政府はこうした政党の攻勢に対抗するため、衆議院を解散した。最初の衆議院解散は松方内閣によって、1891年12月15日に行われた。さらに、任期満了又は先の解散から1年以内に再び衆議院を解散することもしばしば行われた。

1897年12月25日の第11回帝国議会の解散から、議場で議員が万歳三唱をするようになった。なぜ「万歳三唱」を行うようになったかは不明[5]である。元内閣総理大臣の中曽根康弘によると、「大日本帝国憲法下では、『解散の詔書』が包まれる紫の袱紗(ふくさ)に象徴される天皇陛下万歳というのが始まり」とし、「職を失った者が総選挙という戦場に万歳・突撃するという気持ちだ。」としている。他の説として英国議会で「『国王陛下、長生きを』と唱和するのに倣って、天皇の長寿を祈念した」とか「戦前は超然内閣が政党に対抗して解散することが多く、議員が自暴自棄になった」などがある。衆議院事務局は「慣例」としか回答していない。

加藤高明内閣以降には、元老が内閣総理大臣を奏薦する際に憲政の常道が重視されるようになり、衆議院第一党の内閣が倒れた際には衆議院第二党の党首が奏薦されるようになった。衆議院第二党の党首が政権を担当した場合には、内閣の基盤を強化する目的で早期に衆議院を解散することが多かった。

その後、五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されてからは、内閣総理大臣は軍人など政党の党首以外から奏薦されるようになった。陸軍首相の林内閣において最初の予算が成立した直後、1937年3月31日に行われた解散には、重要法案の阻止を図ったという理由以外には特に理由がなく、政党からは「食い逃げ解散」と呼ばれて批判された。この解散は政党勢力を弱体化させるために行われたといわれているが、各政党が議席を伸ばす結果となり、林内閣は5月31日に総辞職した。

ポツダム宣言受諾後の1945年12月18日に行われた解散はGHQの幣原喜重郎内閣への指令によるものであり、終戦解散又はGHQ解散と呼ばれた。この解散を受け、当初翌年1月に行われるはずだった総選挙は3ヶ月延期され、立候補予定者の資格審査(軍国主義者の排除)の後、1946年4月10日に実施された。

大日本帝国憲法下での最後の解散は、第一次吉田茂内閣において1947年3月31日に行われ、新憲法解散又は第2次GHQ解散と呼ばれた。この解散も、GHQの指令に基づくものであった。

NONAME 2008/10/29(Wed) 編集
>NONAME 様
ほう。
 【2008/11/10】
無題
コメント長いは禁止。
NONAME 2008/10/29(Wed) 編集
>NONAME 様
そうですよ。
 【2008/11/10】
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女性
職業:
会社員
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電話で話すとたいてい怒っているように思われますが、実は怒っていません。

黙っているとたいてい怒っているように思われますが、実は怒っていません。

「中学の時の友達の友達に似てる!」というようなことをたびたび言われます。よくある顔ということでしょうか。

道をよく聞かれるタイプです。
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