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大阪のとある広告代理店に勤める、おつぼねデザイナーの雑記です。
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先日、去年まで一緒に仕事をしていた
K地くんと、K地くんと同期入社の営業Y田くんと
3人で飲みに行きました。

2週間ほど前から「この辺に飲みに行くから空けといてください」と
Y田くんから伝言されていたのですが、
飲みに行くと決まったのはその日の19時。

せめて前の日に言えよー!K地ー!
いろいろ準備あるんやからー!
(ほんとはそんなないですが)

行った場所は堺筋本町駅近くの三間堂。
そばとうどんのおいしいお店です。


テーブルにあるタッチパネルで注文。
便利やけどなんか寂しいですねー。


会社にいたころは甘ーい乙女酒ばっかり
飲んでたK地くん。

「焼酎飲めるようになったんすよー」


と自慢げです。


「ほんまか!すごいな!!」




「でも焼酎は梅酒飲んでから」




って、なんだそのワンクッション。




この日、夏風邪をひいてたぶん熱があったであろうY田くんは、
K地くんの現在の会社の話を聞きながらも
白目むきそうな勢いです。


なんだかんだと話をしていたK地くん、


「昔、M田さん(←私)に
 『あんたは金と女の話しかせーへんな!』って言われましたけど
 もう金の話はしなくなりました



と成長した(?)ことを報告してくれました。
サンクスでの経験も色んなとこで
役に立っているようでよかった。





「また飲みに行きましょう!」



と爽やかに去っていきましたが、


メアドは絶対に教えてくれない
K地くんです。



何か恐れられているよーです。
(別に何もしませんよ)




↑「ブログ用に撮らないんですか?」と
言われたので最後の方に撮った写真。



【本日のあるこーる】
生中×1
焼酎ロック(芋)×1
焼酎お湯割り(芋)×2

*********************************

「地酒とそば・京風おでん
三間堂 堺筋本町店」


大阪市中央区南本町1-7-15 明治安田生命ビル1F
06-6267-1332
11:30〜14:00
17:00〜23:00
定休日 なし



株式会社サンクス
集客できるチラシ・ホームページなど、
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無題
記事、有難う御座います。

返事を書こう。書こう。っと思っていましたが、

丁度、出張中に拝見致しまして
「返事書こ~~~って思いましたが」

ピンクの誘惑に負けてしまい。
即効で、ピンクサイトを検索してしまいました。
しょうがないですよね。。。

また行きましょう!!
NONAME 2008/08/25(Mon) 編集
>NONAME 様
出張お疲れ様でした。


>ピンクの誘惑に負けてしまい

・・・確かあなたピンク卒業したんじゃ
なかったでしたっけ?

>また行きましょう!!

はい、また〜。
 【2008/08/25】
無題
G.G.佐藤(ジー・ジー・さとう、本名:佐藤 隆彦(さとう たかひこ)、1978年8月9日 - )は、埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(外野手)。

来歴・人物
登録名の「G.G.」の由来は、中学生時代に、同級生から「猫背でしかも顔が爺臭い」といわれていたためである(爺→G.G.)。喋り好きな性格で、ヒーローインタビューでは「キモティ―――ッ!」と絶叫するパフォーマンスを行うなど、ファンを湧かせるユーモラスな言動で人気がある。ウェイトトレーニングが趣味で、体をビルドアップすることについては余念が無く、その筋骨隆々とした体格を生かした長打力と強肩が最大の持ち味。ベンチプレスは180キロを記録する。守備では主に右翼を守る。


アマ・マイナー時代
桐蔭学園高校から法政大学に進学。大学時代はレギュラーすら掴めず、本塁打も通算で1本のみ。大学卒業後、米マイナーリーグのフィラデルフィア・フィリーズ1Aに入団。もともと法大では内野手だったが、フィリーズ1Aで強肩を見込まれ捕手にコンバートされた。

入団テストで伊東勤監督に見出され、2003年にドラフト7位で入団。マイナーリーグを経由して日本のプロ野球に入った異色の経歴を持つ逆輸入選手 である。


西武時代
2004年
1年目から45試合に出場し、打率.298の数字を残した。プロ初本塁打を含む3本塁打も記録。一塁手かDHで起用され、捕手としての出場はファームでも一軍でもなかった。8月25日には長打力を買われ3番DHでスタメン出場した。

2005年
捕手が多いというチーム事情から打撃に専念するため、この年から内野手(主に一塁手)となり、さらに2005年後半から外野手に再転向。8月20日に右翼手で先発出場したのがプロ初の外野守備である。1軍では打率.214と振るわずに前年より出場機会を減らしたが、2軍では打率.372、本塁打13本、長打率.634と打撃をアピールした。

2006年
外野手登録でスタートし、プロ入り3年目で捕手、内野手、外野手の3通りで登録されたことになる。伊東監督から「キャンプで最も成長した選手」として名前を挙げられるなど実力をつけ、初の開幕スタメンの座を勝ち取り、一時は4割を越え首位打者を争う活躍を見せた。

しかしその後突然不調に陥り、打率がみるみる急降下してあっという間に2割5分付近まで下がってしまった。また広島から移籍した福地寿樹のスタメン定着などもあり、6月には出場選手登録抹消。外野手登録されたことで守備時の動きを軽くしようとし、趣味のウエイトトレーニングを控え体重を減らしたことが後半のスタミナ不足につながった。

2軍では打率.310でチームトップの11本塁打を放つなど格の違いを見せつけ、9月19日に再登録された。しかし再び活躍することはできず、10月3日に再度抹消されそのままシーズンを終えた。2006年のお立ち台での新ネタとしてパッション屋良を真似たパフォーマンスを用意していたが、日の目を見ることなく終わった。

2007年
オープン戦で前年と同じように打ちまくり、5本の本塁打を放つなど好調ぶりをアピールして、見事に7番ライトで2年連続の開幕スタメンを果たした。その起用に応え開幕戦・開幕2戦目と2試合連続本塁打を放った。また、4月28日の対ロッテ戦でヒーローインタビューを受けた際、2007年シーズンにおける自身のキャッチフレーズを、ファンを愛し、ファンに愛される選手になりたい思いから「愛の波動砲G.G.佐藤」と宣言した。

7月のアレックス・カブレラの故障離脱に伴い、空位になった4番候補に江藤智・和田一浩とともに名前が挙げられ、調子を上げていたG.G.佐藤が抜擢されて7月11日から4番を任されるようになった。

後半少し調子を落としたが右翼手のレギュラーは譲らず、初めて一度も二軍落ちすることなく一年を通して活躍し、初の規定打席到達。3年間で9本しか打てなかった本塁打をリーグ5位の25本と量産し、長打率はリーグ4位の.510と5割を越えるなど、中軸打者として活躍した。

前半は6番か7番での起用が多かったが、アレックス・カブレラ、和田一浩らが不振の時にはクリーンアップを任された。3番で20試合、4番で19試合、5番で16試合にスタメン出場した。
稲葉篤紀に次いでリーグ2位となる31二塁打を打った。
グレッグ・ラロッカに次いでリーグ2位となる16死球を記録した。
年間通じてひとつの失策も犯さず、守備率10割を達成した。規定打席到達者で年間無失策だったのは、両リーグ通じて大村直之とG.G.佐藤の2人だけである。また、補殺数で外野手リーグ4位を記録するなど、肩の強さも見せた。
2008年
5月の月間成績で打撃3部門すべてリーグトップに立ち(打率.389、9本塁打、23打点)、初の月間MVPを受賞した。 7月7日発表のオールスターファン投票結果では、セパ通じての最高得票数(367,837票)を獲得して初選出、また同年から始まった選手間投票でも476票を集め、全選手通じてのトップだった。

北京オリンピック野球日本代表の外野手として選出。準決勝の韓国戦で、3失点に絡む2失策をしてしまった。


エピソード
この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2008年8月に貼付されました。

北斗の拳のケンシロウに憧れてウエイトトレーニングを始めたが、そのケンシロウと佐藤の身長、体重はほぼ同じである(ケンシロウ 185cm 100kg、佐藤184cm 100kg)。
マイナーリーグ参加後のシーズンオフに帰国した際、ジャニーズ事務所所属タレントの警備のアルバイトを経験したことがある。
ヒーローインタビューと同時に発売すると予告していた、自身の肉体がプリントされた「キモティーシャツ」が2007年7月7日対ソフトバンク戦ヒーローインタビュー開始と同時に限定300枚で販売された。
ジーンズショップに買い物に行った時、藤原紀香とカブレラがいたが、藤原紀香には目もくれずに迷わずカブレラに会いに行った。
二軍では三塁手の守備経験もある。
2006年のキャッチフレーズは「スリムでドカン」、2007年は「愛の波動砲 G.G.佐藤」。
イタリアのボディビルダーに憧れ、イタリア国旗と同じ配色のマウスピースを使用したが不評だった。現在はライオンズブルーのものを使用。
2008年1月に、契約更改においてG.G.の希望額と球団の提示額との間に1000万円程度の開きがあったため折り合いがつかず、年俸調停をパ・リーグ会長に申し立てた。年俸調停の申し立ては2000年オフの下柳剛以来である。しかし申し出は受理されず、再び当事者間で交渉するようパ・リーグから指示を受けた。春季キャンプは自費キャンプとなり、契約更改まで練習試合・紅白戦に出場できないなどのハンデもあったものの、2月22日にようやく12球団で最後となる契約更改を終えた。納得するまで妥協しないのはアメリカでの生活で身についたことだとコメントしている。
2008年4月8日に人生初のサヨナラ本塁打を打った際の報道で、同年1月中旬に一般女性と結婚していたと報じられた。夫人とは06年オフに知り合ったという[1]。

名言
この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2008年8月に貼付されました。

西武入団後初のキャンプの練習でしごかれ、「死すら生ぬるい、死あるのみ」という名言を残した。
捕手→内野→外野とだんだん外に向かってコンバートされた時、「スタンドにいかないよう気をつける」とコメント。
2007年7月12日:4番に座って2試合目のお立ち台で「4番は強いて言えば、付き合っている彼女に初めて、あなたに出会ってよかったといわれたようなもの。責任感が芽ばえたということです」という珍語録を残し、翌7月13日には「カブレラが乗り移ったようです」というコメントでファンを沸かせた。
2007年8月30日:1ヶ月ぶりに4番を打ち、小林雅英からサヨナラのボテボテの一塁内野安打を打ってまたもお立ち台に上がった。そのときのコメントは「奇跡、奇跡という言葉は起こすためにある」「所沢の奇跡、ミラクルライオンズ、そしてキモティーーー!」。
2008年5月5日:9号2ラン。こどもの日にちなみ、「子供たちよ、夢を現実に。ホームランに夢を乗せて!」
2008年5月22日:12号2ラン。3冠タイトルも視野に入る活躍で記者からタイトルの質問をされ、「30歳を過ぎた独身女性に『結婚しないの?』と聞くのと同じぐらい、それはデリケートな質問です。」と答えた。
2008年7月29日:北京オリンピック日本代表選手選出後初の21号3ラン。試合終了後の日本代表選手壮行会で「体は北京へ行きますが、魂は西武ドームに置いていきます」。

2008年交流戦
この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2008年8月に貼付されました。

対ヤクルト戦(5.22)…試合前にヤクルトを325ミリリットル飲み、12号HRを放った。
対巨人戦(5.23-24)…試合前に読売新聞を隅から隅まで15分で読み、試合では2試合で2打席連続を含む3本塁打した。「もう読売の心は読み切っていました。読んでおいて良かった」と発言。
対横浜戦(6.3)…試合前に崎陽軒のシュウマイを食べ、16号HRを放った。

テーマソング
2006年 シロコダイル「空が笑ってる」「BIG GG(オリジナル曲)」
2007年〜 高橋伸明「theme of G.G.toward to love 30th(オリジナル曲)」

趣味
この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2008年8月に貼付されました。

女性を口説くフレーズを色々と考えるのが趣味。以下のようなフレーズを考えた(2007.4.14「FM NACK5 プレイヤーズクイズ」より)。
「君は魔女だ。僕の心に魔法をかけた」(実際に使用した。女性の返答は「キモい」だった。)
「あっ消防車だ!でも、決して二人の愛の火は消せやしない。」
「君は怪盗ルパンかい?僕の心すら盗むのかい?」
2007年シーズン終了後に1982年式のジープ社製「ワゴニア」を購入。ナインの脚光を浴びるも、年代物なので高速道路にも乗ることが出来ずエンストもしばしばある。
現在の愛車はイタリア製のマセラティ(2008年現在)。但し購入してすぐに故障した。
アロマテラピーが趣味。部屋ではアロマを焚いて癒されているという。
自分に暗示をかけることを日課にしており、移動中のバスなどではMP3プレーヤーで「お前はNO.1だ!」「カモーンG.G.」などの自分を奮い立たせるようなワードが入った音(セリフ)を延々と聴いている。
NONAME 2008/08/25(Mon) 編集
>NONAME 様
>登録名の「G.G.」の由来は、中学生時代に、
>同級生から「猫背でしかも顔が爺臭い」といわれていたためである(爺→G.G.)。

G.G.って何?と気になっていたので
これは調べてました。
 【2008/08/25】
無題
石井 慧(いしい さとし、1986年12月19日 - )は、大阪府茨木市出身の柔道家(四段)。

[編集] 来歴
茨木市立大池小学校、清風中学・高校、国士舘高校を経て、国士舘大学在学中。身長181cm。体重100kg。出身道場は修道館(大阪府)。

2006年全日本柔道選手権大会で鈴木桂治を敗り、19歳4ヶ月の史上最年少で初出場・初優勝、一躍注目を浴びた。2006年アジア競技大会(ドーハ)では100キロ級銀メダル。

2007年全日本では準決勝では井上康生に勝利したが、決勝で鈴木に敗れ、連覇はならなかった。

2008年4月29日、全日本選手権決勝で三度鈴木桂治と対戦し、優勢勝ちを収め、2年ぶり2度目の優勝を飾ると共に、北京オリンピック柔道男子100kg超級日本代表選手に選出された。

2008年8月15日、北京オリンピック柔道男子100kg超級に出場、アブドゥロ・タングリエフ( ウズベキスタン)と決勝で対戦、相手を終始圧倒し、優勢勝ちで金メダルを獲得した。


[編集] 取り口
100kg以下級であったが、2007年秋ごろから100kg超級に転向した。 左利きで、超級のクラスでは上背はないものの、その筋肉量、スタミナはトップクラスである。練習の虫で、特にウエイトトレーニングは寝る間を惜しむほど行っている。 得意技は大内刈で、世界トップクラスの切れ技を持つ。全日本決勝で鈴木桂治を2度破ったのも大内刈りである。しかし、弱点は他に技が少ないことである。だが2007年あたりからは体落としを、2008年から大外刈や内股も出すようになってきた。寝技も得意。 パワーとスタミナの強さから受けが非常に強い選手で、また試合の駆け引きがうまい。よって、旗判定が行われる国内試合に強い選手で、2006年全日本柔道選手権も多くの旗判定や僅差を制して19歳で史上最年少優勝を果たした。 国外ではなかなか優勝できなかったが、2008年2月のオーストリアOPで優勝した。

柔道だけでなく、レスリングやブラジリアン柔術の道場にも1人で出かけて腕を磨く。 積極的に他競技の技術も学んでいる。現在ブラジリアン柔術は茶帯(2008.06.04現在)

全日本男子監督の斉藤仁が「世界一」と認める練習の虫である。


[編集] エピソード
中学・高校時代(清風高校中・高6年制のちに国士舘高等学校に編入)体育教師をしている父義彦さん(柔道六段日体大柔道部出身)に、毎日弁当(朝練があるので2個)を作ってもらっていた。現在も人間として尊敬している人物は父だと明言している。
好きなスポーツ選手は朝青龍(強くて、バッシングを受けている部分に共感するから)で、2008年1月の場所中に実際に会いに行き、励ましてもらっている。2008年4月の全日本選手権では朝青龍が観戦にかけつけた。小川直也の追っかけもしたことがある。
読書家。戦国歴史物からイチローなど他のスポーツ選手についての著書や発言集に至るまで幅広く読み、心構えやトレーニング方法などを柔道に取り入れる。上杉謙信を尊敬し、一番の愛読書は海音寺潮五郎の「天と地と」。
2008年4月の全日本体重別選手権に怪我で出られなくなり、五輪選考に不利になったことで、気づいたら屋上の上に立っていて死のうと思っていたという。(本人談)

[編集] 発言
この記事の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。
この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2008年8月に貼付されました。

「自分のように海外のJUDOを取り入れ、先に対応できた選手が強くなれる。織田信長が鉄砲をいち早く取り入れたように」
「幸せな人には負けたくない」(同階級のライバル、井上康生が五輪を前に結婚したことについて)
「(判定や、かけ逃げでも)勝ちは勝ちですから」
「俺が本気で腹筋に力を入れたら相手は諦めた方がいい。どんな技もかからない。」
「自分はヒールと呼ばれてもいい」
「ウツでも金」
「どうも、飛ぶ鳥を落とす勢いの石井です」(五輪壮行会の挨拶で)
「負けることは死を意味する」(北京五輪前の清風高校の壮行会で)
「生きて日本に帰ることができます。勝てたんです」(北京五輪優勝後の第一声)
「オリンピックの重圧は、齋藤先生(斎藤仁)の重圧に比べたら屁のツッパリ(すっぱ)にもならない」(五輪優勝後インタビュー)
「(大相撲の横綱朝青龍、ボクシング亀田兄弟を)非常に目標になるし、尊敬しています」[1]
「(金メダルより)自分は高校のときに世田谷学園に勝った方がうれしかった」
「これから石井の快進撃が始まります」(北京五輪試合後の会見で)


鬱でも金。 2008/08/25(Mon) 編集
>鬱でも金。 様
耳のタコが気になりますね。
 【2008/08/25】
親父の仕事。
内柴 正人(うちしば まさと、1978年6月17日 - )は日本の男子柔道家。

熊本県菊池郡出身、東京都調布市在住。四段。

[編集] 人物
9歳で柔道を始める。そのきっかけは『兄に喧嘩で勝つ為』だった。旭化成所属。得意技は巴投。尊敬する選手は野村忠宏。160cm 66kg。血液型はB型。

中学時代から頭角を現し、パワーとスタミナのある攻めを生かし男子60kg級で活躍。五輪金メダリストの野村忠宏を追う存在として期待を集めた。一方で減量に苦しみ、大事な試合で失格を繰り返した為、拘っていた60kg級でのオリンピック出場を断念。

66kg級に階級を上げて臨んだアテネオリンピックで金メダルを獲得した。またアテネ五輪においては、全ての試合をそれぞれ違う技で一本勝ちを収めるという珍しい記録を残している。

北京オリンピックでは、柔道日本代表チームの主将に指名され、決勝でバンジャマン・ダルベレ( フランス)に縦四方固めで一本勝ちし、野村忠宏以来の男子柔道連覇を達成。同大会の日本人選手の金メダル第1号となった。

NONAME 2008/08/25(Mon) 編集
>親父の仕事。様
でも、息子は上の空でしたよね。
 【2008/08/25】
無題
オグシオは、バドミントンの小椋久美子(おぐら くみこ)と潮田玲子(しおた れいこ)ペア(いずれも三洋電機所属)の愛称。

概要
2人は同い年で、小学校時代から全国大会で対戦する間柄だった。初めてペアを組んだのは高校時代の全日本ユースでいきなり勝利を挙げている。その後、高校卒業後の進路を迷っていた潮田は、小椋に強く誘われて共に三洋電機に入社。2003年5月に小椋が右足小指を骨折するが、潮田は別の選手とペアを組むことを選ばずにアテネオリンピック出場を逃している。長身で強烈なスマッシュを持つ小椋が後衛、多彩な技を操る潮田が前衛になる場合が多い。

ともに容姿に優れ、バドミントン界では陣内貴美子以来の、ルックスと実力を併せ持つアイドルアスリートである。人気先行のペアと揶揄されることもあったが、2006年のアジア大会(ドーハ)銀メダルなど、国際大会での実績も収めている。国内大会では、全日本総合(オールジャパン)の2003年大会決勝で、同年の世界選手権銅メダルペア(山本静香・山田靑子)にファイナルゲームの末敗れて準優勝。翌2004年から2007年までは同大会を連覇した。同年の世界選手権で銅メダルを獲得。9月に「オグシオ公式写真集 ROAD TO BEIJING」を発売し話題となった。

2007年から三洋電機の広告活動に起用されている。2人は三洋電機の社員であるため、人件費は給与等の範囲内におさまるが、オリンピック代表選手であるため、広告起用には日本オリンピック委員会の承認が必要となった。

スエマエ 2008/08/25(Mon) 編集
>スエマエ 様
「オグシオ、オグシオばっかいいやがって
 うちの娘をなんや思っとるんや!とずっと思ってた」

と、前田のお父さんが憤慨していました。
 【2008/08/25】
無題
上野 由岐子(うえの ゆきこ、1982年7月22日-)は福岡県福岡市出身のソフトボール選手。

ポジションは投手。身長173cm、体重72kg。小学校3年生からソフトボールを始め、ピッチャーとして活躍。九州女子高等学校時代から国内大会で華々しい活躍を演じ、将来を期待された。

シドニーオリンピック候補にも名前が挙がったが、腰椎の骨折でシドニー行きを断念。2001年に高校を卒業後、ルネサス高崎女子ソフトボール部に入部。実業団入りと同時に代表チームにも招集され、シドニー世代の石川多映子、増淵まり子に代わって代表のエースとしても活躍を始める。

アテネオリンピックでは銅メダルに終わる。選手村の冷房で体調を崩し、決勝トーナメントでは投げることすら出来なかった。

2006年に北京で開催された世界選手権では準決勝で世界一のアメリカを封じ込めたものの決勝では逆にKOされ、銀メダルに終わった。

2008年、北京オリンピック、準決勝のアメリカ戦、決勝進出決定戦の豪州戦と2試合続けて登板、いずれも延長戦となり318球を投げ完投(準決勝は敗戦、決勝進出決定戦は勝利)した。そしてアメリカとの決勝戦も先発して7回完投勝利、2日間3試合413球を投げぬき日本の金メダルに大きく貢献した。

NONAME 2008/08/25(Mon) 編集
>NONAME 様
かっこいい。
 【2008/08/25】
無題
ルネサス高崎女子ソフトボール部(るねさすたかさき―ぶ)は、群馬県高崎市を拠点とする女子ソフトボールチームである。

1981年に旧日立高崎工場創立10周年記念事業の一環で日立高崎ソフトボール部として創部。2003年、ルネサス テクノロジのシンボルスポーツとしてチーム名を日立&ルネサス高崎に変更。

元全日本監督の宇津木妙子が総監督を務める日本リーグの強豪である。

2007年より現チーム名に再変更。

NONAME 2008/08/25(Mon) 編集
>NONAME 様
宇津木妙子と宇津木 麗華は
姉妹だと思ってました。
 【2008/08/25】
無題
太田 雄貴(おおた ゆうき、1985年11月25日 - )は、滋賀県大津市出身の、日本の男性フェンシング選手。種目はフルーレ。同志社大学商学部卒、京都クラブ所属。

右利き。キレのあるアタックを特徴とする。

来歴
高校時代にフェンシングをしていた父の勧めで小学3年生からフェンシングを始め、小、中学と共に全国大会を連覇している。平安高校時代には史上初のインターハイ3連覇を達成し、高校2年の時には全日本選手権で優勝した(2008年3月現在最年少記録)。

2004年1月から岡崎直人、山口徹らとアテネオリンピック出場権をかけて多くの国際大会に出場した。3月の韓国国際大会で8位入賞を果たすとその後も確実に上位に進出して出場権を獲得。アテネオリンピックでは3回戦でロシアのGANEEV Renalに敗れ、9位となった。

2006年、カタール・ドーハで開催されたアジア競技大会では、準決勝で2005年の世界選手権2位の張亮亮( 中華人民共和国)を破る大金星を挙げ勢いに乗り、決勝では李天雄( 大韓民国)を破って優勝。フェンシング男子フルーレ個人では1978年バンコク大会以来28年ぶりとなる金メダルを獲得した。

2008年、北京オリンピックフェンシング男子フルーレ個人に出場、日本人選手初の決勝戦へ進出。8月13日の決勝戦ではベンヤミン・クライブリンク( ドイツ)と対戦し9 - 15で敗れるが、日本フェンシング史上初の五輪メダルである銀メダルを獲得した[1]。また、太田が銀メダルを獲得するまでは、フェンシングは1896年の第1回アテネ五輪で正式競技に採用された8競技の中で日本が唯一メダルを獲得していない競技であった。

NONAME 2008/08/25(Mon) 編集
>NONAME 様
意外としっかりしてる。
 【2008/08/25】
無題
飯島 愛(いいじま あい、本名:大久保 松恵(おおくぼ まつえ)、1972年10月31日 - )は、日本の元タレント・元AV女優。 東京都江東区出身。元ワタナベエンターテインメント所属。身長163cm。血液型:A型。

既に芸能界を引退しているが、飯島 愛としてブログ(飯島愛のポルノ・ホスピタル)を続けており、連日ファンのコメントで賑わっている。

[編集] 芸能界内での遍歴など
1992年、AV女優となる。
本名が「大久保松恵」であることは2007年4月8日放送分の『ウチくる!?』にて、中山秀征により公表された(その後、2007年5月2日に自身のブログでもさりげなく公表している)。
生年月日は、当初は1973年8月25日と公表していた。本人の弁によれば、デビューしたのが夏で、すぐに芸能界からいなくなるからその前に誕生日が来ればプレゼントがもらえると思って8月生まれと言った、とのこと。現在でも、1973年8月25日生とする資料がある。
芸名は水商売時代、所属していた店のママが「みんなから愛される子になるように」という願いを込めて「愛」という源氏名を付けてくれたことによる(自著「プラトニック・セックス」より)とあるが、以前テレビ番組で「ラブ」という源氏名を自らつけたことを告白している。「本名が垢抜けないから好きではない」と、思い切った名前をつけた。その後に勤めることになったクラブのママが「ラブ」を転じさせ「愛」にするよう指導し、理由は後付で、客に紹介する際に「みんなから愛され~」のくだりが確立された。
芸名に「飯島」という姓がつけられたのは、当時の所属事務所社長(オフィスレオ)が飯島直子の大ファンだったため。飯島直子側はこれを快く思っていないと報じられることが多く、「W飯島」と括られることもあるが共演はほとんどなかった。しかし飯島直子が2006年10月に「ウチくる!?」に出演した際、両者の不仲説を明確に否定した。なお、この2人の数少ない共演として1994年10月30日の日本テレビ系『スーパージョッキー』がある(この放送でとんでもない事態があった。詳細は『スーパージョッキー』の項を参照)。
1990年代前半、とんねるずのみなさんのおかげですのスタッフととんねるずの木梨憲武が、飯島のビデオのファンであったことから番組にハプニングゲストで出演(これがテレビ番組初出演になる)。
1990年代前半、深夜番組「ギルガメッシュないと」(テレビ東京系)で、スカートをめくり、世の男たちに活力をあたえた。『Tバックの女王』と呼ばれる。その後、次第に大人の女性としてトーク番組等でバラエティタレントとして活躍している。近年は気だるく重い口調が特徴。
1993年、「ナイショ DE アイ!アイ!」で歌手デビュー。オリコン87位。このCDには飯島が実際に着用したパンティを細かく裁断した生地が同梱されていた。
2000年、半自伝的な小説「プラトニック・セックス」でAV出演や性病感染、整形手術していたこと等をカミングアウトしベストセラーに。映画化やテレビドラマ化もされ、以来作家活動も行っている。週刊朝日にコラム「飯島愛の錦糸町風印税生活」を執筆。また性感染症予防の啓蒙活動でも知られる。
あんたにグラッツェ!・あんグラ☆NOW!にゲストとして呼ばれた回数No.1。奢った金額トータルもNo.1。放映開始1周年を記念した回では伊倉一恵の「本の印税で益々景気がいいに違いない飯島愛さんに、オヤジ三人がおごってもらう」との冷静なナレーションの中、登場早々に高田純次らに「金おろせよ」と言われ、銀行のATMから100万円を引き出す。途端にオヤジ三人のテンションは高くなり、「よし、100万円全部使い切るぞ!」「俺達いい仕事するからな」と散々。飯島は抵抗・抗議したが、無論受け入れられず。(エンディングでは、60万円弱を使った旨、明細が出ていた)
更には、番組最終回の打ち上げパーティーと称して高級ホテルの宴会場を借り切った際、実は招待客にパーティー費用を支払わせようという魂胆を知らされずに会場へ登場。総額100万円をあわや飯島一人で支払わされそうになった。
ゲスト出演から準レギュラーを経てレギュラーになる事が多かった。例としては「スパスパ人間学!」、「決定!これが日本のベスト」、「ロンドンハーツ」等がある。
胸や顔の整形等についてカミングアウトしていて、自らのスッピンネタ等自虐系の発言も時々する。そのメイク技術はテレビ番組『くりぃむナントカ』でも、「飯島さん、メイクの本を出すべきですよ!」と言われたほどだった。
2005年にブログを始める。同年、ネット配信番組に連動した株取引に関するブログも、短期間公開された。
2006年11月11日、個人事務所の経理担当の人間から数千万円もの横領被害に遭ったことをブログで告白した。
2007年3月31日、所属事務所から正式に芸能界を引退することが発表された。

[編集] 引退報道
2007年3月3日、芸能界引退の報道が、流れる[1]。
事務所もこの内容をFAX回答で認めた。生出演した『サンデージャポン』では、この件について、いつかは引退すると言うも3月末とは明言しなかった。その後翌週(3月10日)で3月いっぱいで引退することを本人が発表した。

腎臓病(腎盂炎)であることが報道された。それによると「症状が予想以上に重く、仕事を続ける意欲を完全に失っているという。」と理由付けされている[2]。
3月末で引退予定のため、その時期にはTBSで引退特番もすでに組まれていた[3]。
彼女のブログには「引退しないでほしい」「芸能界にまた復帰してほしい」など、引退を惜しむコメントが多数書き込まれた。飯島も「みんなのコメント読んでるよ」と返事を書き、ファンサービスをした[4]。
『サンデージャポン』最後の出演は2007年3月25日だが、ちょうど番組放送直前の午前9時42分頃、能登沖でマグニチュード6.9の能登半島地震が発生。TBSは地震の状況を報道。飯島最後の『サンデージャポン』の放送時間はわずか15分となってしまい、飯島本人が出演した場面は、たった3分(予告編だけ)しかなかった。飯島はこのことをブログで「大変な事態です。人命と私の引退は比べるに値しない。今はそっと、被害が最小限に収まるように見守りましょう。」と綴っている。なお、翌日のニッポン放送の生放送ラジオ番組『テリー伊藤のってけラジオ』において、飯島と『サンデージャポン』で共演しているテリー伊藤が「飯島愛ちゃんの分は収録しました」と話し、来週の『サンデージャポン』で放送すると明言した。
その後、テリー伊藤の言うとおり、4月1日の『サンデージャポン』のラスト10分で、事前に収録された「飯島愛 引退ファイナルカウントダウン」と題されたVTRが放送され、飯島は週刊誌で報じられている「藤田晋とITビジネスを行うという説」や「ニューヨークへ移住するという説」を否定し、「(今後は)医療関係の仕事に就きたいが、今から勉強しても間に合わない。でも、(医療と性質の似ている)カウンセリング関係の仕事をしたい」「歌や(お笑いの)ライブなど、板の上(舞台)に立つ仕事ができないと、芸能人としては限界がある。あと、病気で休んでいる時に、私の代わりになる若手はいっぱいいると思った」と語った(また、「精子バンクでシングルマザー説」については「試みようとしたことはある」と述べた)。そして、VTRの最後では、高橋ジョージが飯島愛のために「ロード」を熱唱し、飯島本人はみんなへの感謝のメッセージを贈った。
2007年3月31日に「目標や夢が見い出せず、芸能界で生き残っていくことは不可能」として所属事務所から正式に引退が発表された。
4/6放送の『金スマ』で、霊能師の木村藤子が「自分に嘘をついてる。あなたは病気くらいで仕事をやめるような無責任な人じゃない。芸能界を引退しては駄目。今まで築き上げたものを全部捨ててしまうことになる。(引退を撤回して苦難を)乗り越えるべき。あなたは無言のうちに人に影響を与えられる人。今が人生最高の時期。(芸能活動を続行すれば)2、3年後に大きな出来事が起こりすべてが変わる。(引退すれば)数年後に後悔する姿が見える。誰か、(飯島の芸能界引退を)止めてあげて下さい。あなたはこんなに愛されている」とアドバイスした。このとき、もっと飯島にアドバイスをすべきかどうかを迷う木村氏に対し、無声のまま口の動きだけで「だめ…だめ…」と訴える飯島の表情がテレビに映った。
木村がその発言をしたその次回の収録が奇しくも最後の芸能活動となるため、本人も再度引退を再考したが、結局飯島が出した結論は、「芸能界引退」。芸能活動最終日となる2007年3月31日が、その「金スマ」最終収録日となった。

2007年4月24日放送の『ロンドンハーツ』の『格付けしあう女』たちでは、(エミー賞ノミネートで、海外で引き合いが出ている)格付けの著作権が誰にあるのか尋ねたり、(変装は)スッピンが一番……等、普段と変わらない発言の後に無事格付けを卒業。いつものように明るい笑顔でスタジオから去った。その後、「番組が続く限り応援していく」とコメントを残した。ちなみに、このときの収録でドイツのプロデューサが見学していた。これが飯島愛の最後のテレビ出演と思われていたが、5月22日放送の同番組内の記憶の壁(解答者は石田純一)にも出演した。

[編集] 逸話
人気AV女優・後藤えり子にスカウトされてAV界に入った。
週刊誌が本人に許可をとらずに勝手にヌード写真を載せたとして争った事がある。
『元アダルトビデオ出演女優』の肩書き(も同然)でデビューしたにもかかわらず、バラエティー番組・コメンテーター・ドラマ女優・作家・ボランティア活動等をこなすマルチタレントとして老若男女から広く支持を得るという成功をおさめた稀有な例であり、巷間のAV女優の憧れの的となっている。
岡本太郎とバラエティ番組「鶴太郎のテレもんじゃ」で共演した際、岡本が飯島の胸元を覗き込んだが、このとき『きゃあ、助平ジジイ』と叫んだ。
かつて光GENJIの大沢樹生の熱狂的なファンで、「どうしても大沢君に会いたいから一緒について来て!」と母親に泣いて頼み、2人で実際に江東区の大沢の自宅を訪ねた事実を『ココリコミラクルタイプ』(フジテレビ)のスペシャルにゲスト出演した際に自ら発表した。
2002年、サッカーW杯日韓大会の韓国-イタリア戦などでの、「韓国チーム寄りの意図的な誤審では?」との疑惑(当時、ほぼ全てのマスメディアが意図的に無視していたも同然の状況であった)について、テレビ番組の『サンデージャポン』内で疑惑について言及しない番組進行に激怒し、「もうキムチは食べない」などと発言をした。
「私的(わたしてき)には」というフレーズで流行語大賞をとったことがある。
TVの前のキャラと違い、共演者・スタッフ達にはプレゼントを欠かさず贈り、営業に余念が無いと(あくまで)自ら告白している。
TVでは自由奔放で辛口発言や暴言が多いと思われがちだが、実際は非常に繊細で、辛口や暴言を吐いた相手に対し、気遣いとフォローを忘れない。また気が回りすぎて、つい虚勢を張ってしまうタイプであることを、前所属事務所の社長により告白されているが、真実は定かではない。
知識を要するクイズ番組は苦手だが、頭の回転は速く、運や駆け引きを要するゲーム番組には極めて強く優勝回数も多い。そのため、出演者がチームを組みリーダーが挑戦者を選抜する形式の番組ではリーダーが「使いどころ」の見極めを要求されることが多い。
かなりのガンダム好きであり、富野由悠季と何度か対談を行っている。
父親は自民党後援会員を務めている。その縁で、都知事選で柿澤弘治を応援したことがある。
2006年、『ウチくる!?スペシャル』に江原啓之が出演した際に、「“とにかくかわいそうなくらい繊細過ぎる。外見の印象と全く違う人。オーラの色はきれいな紫の色を持ってるが微弱。他人を信じ過ぎて、疑う事を知らな過ぎたために、さんざん、裏切られた事がいっぱいある。他人からの愛を信じられない所がある。他人への施しは程々にして、自分の幸せを考えなさい。去年まで人間関係、ゴタゴタ、色々とあったが、全部、切り捨て、今年から気持ちを切り替えて、新しい方向へ行きなさい。今まで一度も甘えた事が無い。自分自身が甘えられる環境を作る事がこれからの課題。幸せはある”と守護霊からのメッセージがあった」と指摘された。
芸能人の昔を再現フィルムなどで見せるという特番では中学の写真一枚で終わった。
現在では自身の事をセレブニートと称している[5]。
ブログでデザイン事務所へアルバイトに出かけると言い、その頼りなさに多数の助言がコメント欄でなされた。真偽の程は彼女のそれへの回答がない為、明らかではない[6]。
NONAME 2008/08/25(Mon) 編集
>NONAME 様
いや・・・なんで?
 【2008/08/25】
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電話で話すとたいてい怒っているように思われますが、実は怒っていません。

黙っているとたいてい怒っているように思われますが、実は怒っていません。

「中学の時の友達の友達に似てる!」というようなことをたびたび言われます。よくある顔ということでしょうか。

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